松林 飯山(まつばやし はんざん)の掛け軸買取を実施中!【SATEeee掛け軸買取】へ

1.松林 飯山の掛け軸作品をお持ちで売りたいお客様へ

松林飯山は幼少の頃より学問を修め、12歳で藩校五教館の小給に取り立てられるほど優秀でした。29歳の若さで佐幕派の襲撃により命を落としますが、この事件が契機となり、藩論が倒幕派に統一されたと伝わっています。倒幕派の中心人物だった飯山は、その功績により、没後に従四位が贈られ、吉田松陰とともに靖国神社に祀られています。松林飯山は著名な人物なため、真作であれば高値が期待できるでしょう。

このページの目次

2.掛け軸作家「松林 飯山」についての概要

松林飯山は、3歳で文を書き、4歳から7歳の頃には論語、孟子、詩経、大学などの四書五経を読んだといわれています。1862年(文久2年)に大阪の昌平校時代に三秀才と称された岡千仭(せんじん)、松本圭堂とともに私塾の雙松岡塾(そうしょうこう)を開きます。しかし、尊王思想の拠点であると京都所司代から問題視されたため6か月で閉鎖しています。

3.掛け軸作家「松林 飯山」の生い立ちや歴史

松林飯山は1839年(天保10年)に筑前国(現在の福岡県)で、大村藩医を務める松林杏哲の子として生まれました。幼少の頃より神童の呼び声が高く、1850年(嘉永3年)、12歳のときに藩主の大村純熈に『唐詩選』の講義をしました。大村純熈への進講が評価され、藩校五教館(現在の長崎県立大村高等学校)で勤めることになります。1852年(嘉永5年)、純熈に従い江戸に出向き、安積艮斎の塾に入門すると主席となります。1857年(安政4年)には昌平黌に入学し、19歳で助教に任命されました。やがて飯山は、大村藩の五教館で学頭、祭酒を務め、藩政にも参加するようになります。飯山は、勤王派思想の同士で結集した「大村三十七士」を組織しますが、1867年(慶応3年)に佐幕派の襲撃により絶命してしまいます。

4.松林 飯山の掛け軸作品の買取査定ポイントのご案内

由来や書付など、松林飯山の真作だということを裏付けるものがあれば査定価格は高くなるでしょう。また、ヤケや汚れ、傷などは査定にも影響出ますので、しっかりとした管理をすることをおすすめします。

代表的な掛け軸作品の査定ポイント
  • 欠けなどがなく保存状態は良好か(補修せずにそのままお持ちください)
  • 松林飯山本人の作品かどうか(サインや落款が確認できるか、いつの時代の作品であるか)
  • 市場価値はあるか(有名作家の作品なら多少劣化していても高値が付きます)
  • 掛け軸の素材の質、種類
  • 付属品の欠けはないか(共箱・共布・栞などが揃っているか)

5.松林 飯山の掛け軸作品の取引相場や取引参考価格

松林飯山の掛け軸作品はネットオークションで、真贋不確かなものでも数千円程度から数万円で取引されています。模写作品でも例えば『松林飯山 四行書』という作品では、表具寸縦約171.5cm×横約66.5cm、本紙寸縦約105cm×横約356cm、「紙本肉筆」、作品状態は「シミ、オレあり」とするものが、39,300円で落札されています。

6.松林 飯山の掛け軸作品の買取についての情報まとめ

松林飯山は幼少の頃は神童と呼ばれ、若くして藩政に携るほど優秀な人物でした。29歳の若さで亡くなっている為、現存している作品が真作であれば希少価値が認められるでしょう。松林飯山の掛け軸を所有されている方は、是非一度査定を検討されることをお勧めいたします。