松岡 映丘(まつおか えいきゅう)の掛け軸買取を実施中!【SATEeee掛け軸買取】へ

1.松岡 映丘の掛け軸作品をお持ちで売りたいお客様へ

松岡映丘は、大正から昭和初期にかけて活動した日本画家です。幼少の頃から歴史画や武者絵を好んで、日本画家を目指していました。平安・鎌倉期の古典文学の研究に丹念し、生涯、大和絵についての研鑽を積みました。その作品は王朝貴族や鎧武者たちが叙情豊かに美しく描かれているのが特徴です。コレクターからも人気が高く、オークションなどでも高値で取引されることがあります。

このページの目次

2.掛け軸作家「松岡 映丘」についての概要

父は儒学者であり、言語学者、歌人・国文学者などの兄を持つ学者の一家で、松岡映丘は育ちました。古典文学を研究し数々の大和絵を残しましたが、古典的な表現だけにとどまることなく大和絵に近代的な表現も取り入れながら、時代に即した作品へと昇華させていきました。これは、古典文学を深く学びながらも新しい時代を切り開いた松岡だからこそ成せたなせた業といえます。その作風に裏打ちされるように「古典の教養に立脚して時代に生きよ」と、彼の多くの弟子たちに語ったと言われています。

3.掛け軸作家「松岡 映丘」の生い立ちや歴史

1881年、現在の兵庫県に八男として生まれます。幼い頃から絵が好きで画家を目指した松岡映丘は1899年に東京美術学校日本画科に入学し、川端玉章、寺崎広業らから指導を受けました。在学中は「歴史風俗画会」に参加して、1904年には首席で卒業。1908年には母校に教授として就任し、後世の指導にも従事しました。1912年、第6回文展にて『宇治の宮の姫君たち』が初入選を果たします。それ以降は官展を舞台とし活動するようになりました。1916年、島成園の門下であった林静野と結婚。1929年には第10回帝展の『平治の重盛』で帝国美術院賞を受賞します。1930年に帝国美術院会員にも選ばれますが、1935年に帝展の改組により画壇が大きく揺れ、長く務めた母校を辞め、「国画院」を結成。1937年、帝国芸術院会員となりますが、1958年に56歳で死没しました。

4.松岡 映丘の掛け軸作品の代表作一覧

浦の島子(1904年)
宇治の宮の姫君たち(1912年)
堂成寺(1917年)

5.松岡 映丘の掛け軸作品の買取査定ポイントのご案内

松岡映丘の掛け軸などの査定額は、作品の状態などはもちろん、題材によっても異なってきます。松岡映丘の特徴である、伝統的な大和絵の特徴に近代的な表現を加味した独自の作風がよく現れたものだと、高い査定額になることも多いです。

代表的な掛け軸作品の査定ポイント

本物の作品であるか
保存の状態が良く、美品であるか
作者の署名があるか
作品の題材が人気のものであるか

6.松岡 映丘の掛け軸作品の取引相場や取引参考価格

オークションで過去に取引された例を見てみると、大体の相場は2万円前後のようです。最高額で落札されたものでは、縦96.5cm横42cmの大和絵の掛け軸の57,000円でした。テレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」では、松岡映丘が30代ごろに描かれた掛け軸に500,000円という査定額がついたこともあります。

7.松岡 映丘の掛け軸作品の買取についての情報まとめ

松岡映丘は、大和絵に独自の視点から近代的要素を加えた作品を多く生み出し、画壇にも大きな影響を与えた人物でした。時代に合わせてよりモダンな作風へと進化させて、大和絵をさらに発展させていった彼の作品は美しく、現在でも高い評価を受けています。松岡映丘の作品をお持ちの方はぜひ一度ご相談ください。

その他の掛け軸について