小川 芋銭(おがわ うせん)の掛け軸買取を実施中!【SATEeee掛け軸買取】へ

1.小川 芋銭を売りたいお客様へ

小川芋銭は明治から昭和にかけて活躍した日本画家です。小川芋銭は江戸幕府が終わる1868年に生まれました。その生涯のほとんどを故郷茨城県の牛久沼の畦で過ごしたと言われています。そこで農業を営みながら絵札を取り続けました。身近な農民の姿や、水辺の生きもの、魑魅魍魎など幅広い題材を描いた画家でした。また漫画や挿絵、表紙なども描いていたとされます。 そんな小川芋銭の作品は人気が高く、贋作が多く作られた作家とも言われています。独創的な画風は今も多くの人に愛されています。

このページの目次

2.小川 芋銭についての解説

小川芋銭は江戸幕府が終わりを迎える1868年に生まれました。小川家は武家でしたが、廃藩置県により現在の茨城県にて農家となりました。幼少の頃より家業を手伝いながら絵に興味を持ち、13歳で上京。本多錦吉郎の画塾である彰技堂に入門。当時は洋画を勉強していました。当初は漫画や挿絵などから画家生活をスタートさせました。その後父の跡を継ぐため帰郷。農業を行いながら絵筆を取り続け、本格的な日本画家を目指すようになりました。出品した作品が横山大観の目に留まったことで、日本の画壇に注目されるようになり数多くの作品を残しています。 身近な農民や生き物、魑魅魍魎などを画題とし特に河童を好んで描いたため「河童の芋銭」とも称されました。

3.小川 芋銭の歴史

小川芋銭は1868年、武家の家へ生まれました。しかし廃藩置県により、一家は現在の茨城県牛久市にて農業を開始。芋銭は働きながら画家を目指し、1881年上京。本多錦吉郎の元で洋画を学びました。 1888年から新聞の挿絵や漫画を掲載。1893年故郷の牛久に戻り農業に従事しました。1915年川端龍子とともに珊瑚海を結成。日本画家を目指しながら作品を多数出品。1917年に出品した「肉案」が横山大観に認められたことで、日本美術院同人にも推薦されました。1923 年茨城美術展顧問、1925年に帝国美術院参与となります。 1938年牛久の自宅にて永眠。享年70歳。晩年に建てたアトリエのは現在「雲魚亭」として一般公開されています。

4.小川 芋銭の代表作や作者

「肉案」         1917年 「水虎と其眷属」     1921年 「狐隊行」        1930年 「河童百図・因指見月」  1937年

5.小川 芋銭の買取査定ポイント

小川芋銭は贋作が多く作られた作家だと言われています。そのためまずは小川芋銭の真作かどうかが大きなポイントです。真作の場合でも、証明書や鑑定書がない場合は査定額が安くなる可能性があります。また小川芋銭は俳人としても活躍したため、絵だけではなく書の掛け軸も残されています。 また保存状態が良いか、箱があるかなどの骨董品のあてはまる査定ポイントも適用されます。
  • 小川 芋銭の真作か(鑑定書や証明書はあるか)
  • 保存状態は良好か(箱などはあるか)
  • 大きさはどれくらいか

6.小川 芋銭の取引相場価格

肉筆であっても真贋鑑定が行われていないものは数千円程。しかし人気の題材である河童を描いたものなどは約2~3万円の値がつくこともあります。また鑑定はされているが鑑定書がついてないものが4~5万程となっています。 もし真作の肉筆画であれば数十万、未発見のものであれば数百万円の値がつくこともあります。

7.小川 芋銭の買取についてのまとめ

日本の風景を描きつづけた画家、小川芋銭。彼の描く生き物は、身近であったり空想的であったりしますが、いずれも自然への敬意が感じられます。また学を修めた芋銭は、絵だけでなく俳人や書道家としても多くの作品を残しました。そのため、書と絵が一緒に描かれた書画なども残されています。 小川芋銭の掛け軸は書や絵画、書画などがあります。もし真作の肉筆画であれば、思わぬ高値がつく可能性があります。