下村 観山(しもむら かんざん)の掛け軸買取を実施中!【SATEeee掛け軸買取】へ

1.下村 観山の掛け軸作品をお持ちで売りたいお客様へ

下村観山は1873年和歌山県に生まれた日本画家です。本名は晴三郎。狩野芳崖や橋本雅邦に師事し、東京美術学校(現在の東京藝術大学)では第1期生として学びます。その後文部省留学生として渡英し、滞欧中には西洋絵画の技法を吸収し、自らの創作に活かしました。伝統的美意識を引き継ぎつつ新しい技法を取り入れ、近代における日本画の表現を発展させた下村観山の功績は高く評価されており、その卓越した描写力からも非常に人気が高く、真作であれば数百万円の値がつく可能性もあります。

このページの目次

2.掛け軸作家「下村 観山」についての概要

下村観山は近代日本画史の中で最も重要な人物の一人で、日本美術院(現在の院展)の創設そして再興にも関わった人物です。その作品は国立の博物館や美術館にも収蔵されており、代表作は重要文化財に指定されています。アトリエを構えたゆかりの地である三渓園や横浜市の美術館にも作品が収蔵されています。海外での修行期間を経て西洋美術の技法を取り入れながら、近代日本画の新しい方向性を模索した下村観山。朦朧体と呼ばれる、輪郭線ではなく色彩の濃淡によって形を描く技法を取り入れた作品もあります。繊細で優美な自然描写や装飾性あふれる画面は、観山の没後90年近く経過した今も多くの人を魅了し続けています。

3.掛け軸作家「下村 観山」の生い立ちや歴史

下村観山(本名晴三郎)は1873年、和歌山県和歌山市に生まれました。8歳で上京し、最後の狩野派の絵師といわれる狩野芳崖に最初に師事し、のちに橋本雅邦にも学びました。東京美術学校(現在の東京藝術大学)の第1期生であった観山は卒業後、同校で助教授として指導にあたりました。1898年に同校から岡倉覚三(天心)が排斥されると、橋本雅邦、菱田春草、横山大観らとともに日本美術院の創設に参画します。1903年には文部省留学生として渡英し、西洋絵画の研究と模写に励みました。1906年、経済的に立ちゆかなくなった日本美術院の移転にともない、茨城県五浦へ移住し、新たな環境で創作をはじめました。1913年には実業家・原三渓に招かれ横浜本牧に移り、三溪の支援を受けながら制作を続け、1917年には帝室技芸員にも選ばれました。1930年没。

4.下村 観山の掛け軸作品の代表作一覧

光明皇后(1897年)
鵜鴎図(1901年)
木の間の秋(1907年)
小倉山(1909年)
白狐(1914年)
弱法師(1915年)
景雲餘彩(1922年)

5.下村 観山の掛け軸作品の買取査定ポイントのご案内

下村観山はその知名度や人気から贋作も多く出回っています。真作であることが何より重要なポイントであるため、証明書や鑑定書がある場合は高額査定が期待できます。作品の来歴、制作年代や題名がはっきりしているかどうかも査定の際に重要なポイントです。

代表的な掛け軸作品の査定ポイント
  • 下村観山の本物の作品であるかどうか(証明書や鑑定書があると尚良い)
  • 保存状態は良好か(画面のシミや破れなどがないか)
  • 作品に署名や落款印があるかどうか
  • 大きさはどれくらいか
  • 箱書きが揃っているかどうか

6.下村 観山の掛け軸作品の取引相場や取引参考価格

真贋鑑定のされていない掛け軸の価格は12,000〜30,000円の値がついています。一方真作であると判断された場合には、作品には数百万円の値がつくことも珍しくありません。クリスティーズのオークションにおいて松林が描かれた絹本着彩の掛け軸が出品された際には、34,500USドル(約383万円)で取引されました。こちらは、掛け軸のサイズが144.8 x 55.3cmで、箱書きのあるものです。六曲一双の屏風の作品は93,500USドル(約1,038万円)で取引されたこともあります。

7.下村 観山の掛け軸作品の買取についての情報まとめ

近代日本画を牽引した下村観山。卓越した技法による上品な画風は多くの人に受け入れられています。近代日本画史において非常に重要な人物であることからも圧倒的な人気を誇り、その真作となれば掛け軸の価格が数百万円を超えることも珍しくはありません。お手元に下村観山の掛け軸作品をお持ちの場合には是非一度お問合せくださいませ。

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